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伊藤 秀雄(いとう ひでお、1922年6月1日 - 2002年)は、日本の柔道家(9段)。元法務教官。 == 経歴 == 1922年、富山県富山市の富豪農家であった大久保家に生まれる。神通中学校(現・富山中部高校)時代、身長173cm・体重72kgという大柄な体格が同校の柔道教師であった三鍋義三〔武専卒。柔道7段。戦後、社会党の国会議員を務めた。〕の目につき、柔道を始めた。 旧制四高が主催する信越5県の中等学校大会に出場すると団体・個人とも優勝を果たす。同級生で後に講道館指導員を務めた高田勝喜〔神通中学 - 国士舘。のち講道館指導員。柔道8段。〕は“中学生にして柔道3段。恐らく日本一強い中学生だった”と評す〔。 1940年、恩師・三鍋の勧めにより京都武専本科に進学すると、1年生で4段、2年生で5段に昇段した。1年先輩の吉松義彦や1年後輩の橋元親ら強豪選手との稽古に明け暮れた3年間で実力を更に磨いた大久保は、大日本武徳会が1941年に開催した全国都道府県対抗大会(団体戦)に京都代表として出場して優勝したほか、翌42年の明治神宮大会で拓大の平野時男と決勝戦で激闘を振り広げて準優勝に輝いた。1943年3月、4カ年を主将で通した武専を卒業〔。卒業後に父の姉の養子となり、伊藤性を名乗った〔。 太平洋戦争の戦禍が激しくなると、伊藤も1943年12月に現役兵として入隊。工兵少尉として終戦を迎えた後は満州からシベリアの奥地エラブカで抑留され、復員した1947年11月には、従前90kg前後あった体重が75kgにまで落ちていたという〔。 復員後、富山で半年間の保養を経て富山北部中学で約1年間国語や漢文の教鞭を執ったのち、再び柔の道を志し岐阜市警に柔道師範として入り、1949年から連続して全日本選手権に出場。しかし、49年・50年は醍醐敏郎に敗れ、51年は武専の先輩に当たる松本安市に敗れた。 1952年3月、名古屋矯正管区の法務教官に着任。同年に秋田市で開催された全日本東西対抗大会では、全日本選手権者である吉松義彦7段を優勢勝で破ったほか強豪・松本安市7段と引き分けて、東軍優勝に大きく貢献した(段位はいずれも当時)。この頃には体重も88kgまで増量し、大外刈や内股、支釣込足などの大技を得意とした〔。 1953年、全日本選手権に照準を定めた伊藤は1月から講道館に通いつめ、約1カ月間寒稽古で3時間の猛稽古に勤しんだ〔。5月の大会本番では順当に勝ち上がり、準決勝戦ではそれまで2度全日本選手権を制している石川隆彦7段を得意の支釣込足で一閃、決勝戦に駒を進めた。 決勝戦ではディフェンディングチャンピオンである吉松義彦と対戦、試合時間20分のうち前半は互いに優劣なく試合が進んだが、11分過ぎにあわや場外という場面で伊藤が気を抜いて観客席を見上げた瞬間に吉松の左内股が炸裂し、虚を衝かれた伊藤は大きく宙を舞い一本負けを喫した。 同年9月に福岡市で開催された全日本東西対抗大会では東軍副将として参加し、全日本選手権の鬱憤を晴らすかのように3勝1分という好成績を残した〔。全日本選手権には54年、55年も出場するが、30歳を超えた伊藤はそれぞれ1回戦敗退、2回戦敗退で大会を終えている。 現役の第一線を退いてからも法務教官を務めあげて矯正管区の柔道大会では審判長として活躍したほか、役所や名古屋市西区に構えた自身の町道場で後進の指導に当たった〔。1988年に9段に昇段し赤帯を許されてからも精力的に活動し、全柔連評議員や講道館最高審議員、東海柔道連合会副会長、愛知県柔道連盟名誉会長、名古屋柔道協会名誉顧問等を歴任した〔。 2002年の年末、胃癌のため名古屋市内の大学病院で死去〔。葬儀は宗派創価学会で執り行われ、棺桶には使い古して汗まみれの氏の柔道衣が供えられた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊藤秀雄 (柔道家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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